磯子区金沢区境界の半山道をうにうにと上り、断崖カタストロフィに立ちすくんだクリスマスイブのなめこさんは、「第1回はここでお開きっ!♡」ということにして、おうちに帰ることにした。ここから近い駅は東方向の京急富岡か能見台、直線距離で1.5kmほど、歩けない距離ではなうわあ〜やっぱり気になる〜!(何だよっ!)
これ、
と、これである。道路右側の森への入口。
前記事で申し上げたが、今回は尾根探索ではない。だが車両進入禁止の先、右折して坂を上ってきた古道よりも、右側(西側、上中里町側)の森のほうが小高くなっていて、厳密にはそちらが尾根線であろうことが気になるし、しかもいったい中はどうなっているのかも気になる。
早速入ってみよう。(入るのかよっ!)
何、この季節である。問題ない。(岩船地蔵側の入口です)
ややっ!?
これわいったい何?私わ誰?(なめなんとか)
ただの山道かと思っていたのだが、傍らにいわゆる公園の柵のようなものがある。
柵は先にも続いていて、ここにも。
ここはいったい何なんだろう?公園の跡?いや跡だとして、なぜ「跡」になっているのだ?
位置関係からして、こちらが旧道ということもない。
この辺で犬の散歩をしている方とすれ違った。山道として荒れていないのは、ご近所の方々がこうしてしばしば足を踏み入れているからなのであろう。
さらに進むとT分岐になっている。
左方向と右方向。
右方向は、岩船地蔵の坂道に右折する前に見かけた入口に出るのであろうかと思われる。
ここは左へ進んでみる。
下り坂である。
おおお、下界に出たぞ。
出てきた道を振り返ってみる。
こんなところから、なめこさんのようなぷにぷにしたものがいきなり出てきたら、通りがかった人はびっくりするであろう。(笑)
場所的には、ここの分岐を右に入って200m弱のところ。
要は、浦賀道とこの分岐道の間で三角に森になっている真ん中へんを北上し、T字路から西へ下ったということである。
それにしてもあの山道にあった柵のようなものは、いったい何であったのであろうか。地名は横浜市磯子区上中里町。色々と磯子区関連の文献等も調べてみたが、情弱かつ調査能力のない私にはついぞわからなかった。
前記事では、
この先南側、先程対岸と表現した文庫に通じる六国峠ハイキングコースの側はいい具合に段々になっているのだが、こちら側(北側)はここの断崖でわかるように「掘りすぎちゃって困るの〜♪」的な感がある。この無理な段差は土砂調達のノルマの結果か???なんてことを書いたが、地形を良く見てみると無理やり掘り下げたと言うよりも(いや無理やり掘り下げたのではあろうが)、このさらに北側の杉田9丁目からの連続で(区境辺りにピークはあるが)、この森だけを残してあとを平らに均したのではしたのではないか、という感じである。
それが土地の権利関係などとは別に何か意図的なものであるとすれば、例えばあの断崖カタストロフィは、富岡西や能見台のニュータウン、そして八景や海方向を見通すための展望台機能を持たせたものであり、さらに少しだけ小高いこの森部分、山と言っても良いだろうが、それは開発元が「展望公園を作って見ますた」的な意味あいのものであったのかもしれない。それがなぜただの森、山道として放置されているのかはわからないが、京急とかに訊いてみたら何かわかるかもしれないな。
ということで、とりあえずは図書館でうにうにと調べてみたところ、「京浜急行八十年史」(昭和55年(1980年)3月15日発行)という本で、こんな図面を見つけた。(648ページ)
「釜利谷地区開発計画の概要」、東半分の住宅地部分が後の能見台ニュータウン、正式名は「京急ニュータウン金沢能見台」である。(因みに富岡ニュータウンは、右上の空白部分に隣接している)
実はこの図面、以前にもご紹介したこちらにも載っていることを、この記事を書いているたった今見つけた(しかもカラー)のだが、「紙コピー→スマホ撮影」のこちらの方が拡大して見ることができる。(雑なコピーだが)
我々がうにうにした森は、この図の一番上のとんがっている部分になる。そして浦賀道を断崖カタストロフィで消滅するところまで青いラインで引いてみると、こんな感じ。
この図が非常に興味深いのは、太線で囲まれた領域を開発計画領域とすれば、件の森もその範囲に入っているということである。私は当初、先入観で磯子区であるその部分は金沢区側の「開発」からは除外されていると思い込み、その後、上の「展望公園」説、つまり森部分も開発区域に組み込まれているのではないかという可能性を適当な思いつきで述べてみたのだが、太線で囲まれた領域=開発計画領域であるとすれば、これはジャストミートで後者ということになる。そして、少なくとも現在ある森とその地形はその開発元によって意図的に残されたものであるということができるのである。
「展望公園」のような計画があったかどうかは、道を挟んだ対面の児童公園(富岡ひかりが丘公園のこと)については図に記載されているが、森の部分については何も書かれていないので、実際どうなのかはわからない。あるいは例の柵については、開発計画とはまったく関係がないのかもしれない。
何にせよ、これ以上調べてもよくわからないし、記事が先に進まないので、この件はとりあえず謎のままにしておこう。
もう一つ、金沢沖への土砂調達の件だが、「京急沿線の近現代史」(小堀 聡 著)に、その辺りの経緯が詳しく記載してあるのを見つけたので、ご紹介しておこう。
引用すると長くなるので、かいつまんでご説明する(「第八章 富岡〜金沢八景ーおもしろき土地の大衆化」) 。
- 1965年、横浜市は富岡〜野島の金沢地先一帯(前記事で申し上げた、現在横浜シーサイドラインが通っているところ)での大規模埋め立て計画を発表する。
- 同時期に、京急による釜利谷開発計画が持ち上がる。
- 市は当初、京急に対して開発地域を市街化調整区域として開発規制をかけようとしたが、後に条件付きで認可することにした。
- その条件とは、
- 住宅の収容計画人口の引き下げ
- 住宅地と恒久的緑地の面積の比率の指定
- 高速道路(金沢支線のこと)をトンネル方式で通過させる
- 文庫駅西口広場の整備
- 排出土砂を排土トンネルで金沢埋立地に無償提供
最初の4つは行政が介入しても「ごもっともごもっとも」な話であるし、駅前の整備は京急にもメリットのある話であるが、5だけがなぜかチャッカリしている。(笑)
日本社会党の中央執行委員長にまでなった飛鳥田一雄という革新市長が、金沢沖埋め立ての開発を推進した経緯だのが、現代から見ると少し奇異な感じがするが、高度経済成長期とはそんなものであったのだろう、とざっくりとまとめておく。(またざっくりかよ)
その後、反対運動や石油危機(高度経済成長オワタ)等で京急の開発計画が停滞し、京急さんは市に対して「開発手伝えよ」と申し入れたのだが、反対運動の矢面に立つのいやん♡な市はそれを嫌がり(革新市政の時代からこの市はセコいのである(笑))、おまけに土砂の搬出が延期になったことに市が業を煮やし、千葉県の浅間山からも土砂を購入することになったりもしたが、なんとか丸く収まり開発は続行されることになった。(あ。また適当にまとめた)
- 1977年、排土トンネル工事、1978年、造成工事がそれぞれスタートする。
- 分譲地が能見台と命名され、1982年、谷津坂駅が能見台駅に改称
- 1993年、シーパラ開業
この著書のこの章には他にも、開発反対運動の人々の話や、金沢沖埋め立て以前の平潟湾の埋め立てや、さらにそれ以前の海水浴場時代の話など色々載っているので、ご興味のある金沢区ファン、京急沿線ファンの方は、是非原著をお読みいただきたい。せっかくコピーしてきたので、平潟湾の話などはいずれご紹介する機会があるかもしれない。
まあそんなことはどうでもよくて、早く帰りたくなったなめこさんは「笹釜に出たほうが早いや」とまたまた適当な略語を使って、適当にバスに乗り、上大岡のクリスマスの闇に消えましたとさ。(闇?)