カタストロフ断崖である。断崖カタストロフィともいう。(語形変えてひっくり返しただけじゃんw)
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この先の古道は、断崖の下の住宅地能見台ニュータウン、地名としては概ね現在の能見台1丁目2丁目の領域(能見台北公園の西側)を通過し、能見台緑地の入口付近に到達する。
例によって何事もざっくりのなめこさんが、今昔マップ等を元にして、ざっくりとその区間のラインを引いてみたのが、以下の図である。
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(地理院地図を加工)

この区間について、我々が参照させて頂いているテキストはどう対処されているか見てみよう。

金沢・浦賀道:保土ケ谷→金沢地誌のはざまに

マップ上のバルーンにおいて、
ここから先は地形が大きく改変され、かつての道筋を追うことは不可能。能見堂緑地に入る辺りまで、おおよその線を引いた。
とされ、やはり概ね能見台北公園の西側を通るコースを取られている。

以下の2つは鎌倉街道下道が主題だが、この区間のルートはほぼ同一なので問題ない。ただし、進行方向が逆(北行)になっていることにご注意いただきたい。

鎌倉旧古道 鎌倉街道・鎌倉往還 下の道歴散加藤塾

このあたりから北は、氷取沢高校の裏まで、分譲地造成工事のため、全く古道は失われてしまった。(ここの開発も京浜急行である。)(引用者注:笑)

仕方が無いので、団地内へ入ったら、一本右(東側)の道を下ると団地内の「能見台センター」バス停に出る。

バス停の東北に、横浜能見台郵便局と京急の大きなスーパーがある。

京急ショッパーズプラザの裏をさらに北へ行くと階段を下りて、能見台北公園へ入るので、公園内を通って行こう。

公園を抜けて、能見台北公園を出たら右手の小学校そばの道を北へ進む。

氷取沢高校の脇にかつての道の後が階段になっているので、登って二つ目の路地を右へ入り、又階段を上ろう。

地図上の点線のラインは公園の西側を通るルートになっているが、現地では公園内を抜けられたようだ。最後に上る階段が、この記事で後で下る階段である。
因みに私はアニメには興味がないので全くわからないのだが(は?)、このブログでいらっしゃるかもしれないアニメファンの読者さんのために、その後の文章も引用しておこう。

ちなみにこの氷取沢高校は、原作漫画およびアニメ「恋は雨上がりのように(2018放送)」の舞台となり「風見沢高校」として出てくる。最終回に主人公の橘あきらが、進路希望提出用紙を紙飛行機に折って投げようとしたのが、この階段である。

実際アニメは観ていないので何ともいえないが、やはり断崖カタストロフィのような眺望の良いところは絵になるということなのであろうか。

第二編 下の道(PDF)街道を尋ねて/北倉庄一

136ページ。
この団地のどこに古道が埋没してしまったかは今となっては分からない。多分、能見台郵便局、京急ショッピングセンターの近くを通っていたのではなかろうか。この先、能見台北公園に下りて、その中を抜け富岡中学の西を通り、氷取沢高校の東側に出る、ここまで公園の中の緑道そして舗装道路の端の歩道と古道は変貌したようだ。
この引用文章の最後の文が、本カテゴリ「街道をGo!Go!」の最初に書いた「古道について」で引用した文章につながる。
ここまで公園の中の緑道そして舗装道路の端の歩道と古道は変貌したようだ。考えてみると、古道はそのまま、人の手にかからずに現存するはずはない。人の手がかからないということは、自然のままに放置されるということであり、道は草におおわれ木の根がはびこり、土砂で埋まりあるいは風雨で崩れる、だから道路は絶えず人の手によって維持されねばならならない。それが古くは木や石による舗装だったり、石畳だったりした。それが現代風にコンクリートの舗装になり、公園の一部に組み込まれていたりするということなのだろう。

これらの鎌倉街道派(派?)の方々はどちらも能見台北公園西側の住宅地に古道のルートを辿ることを放棄し、夏であれば涼やかであろう公園内の遊歩道を歩くことを選択されている。この胡散臭いブログのきわめてインチキ臭い用語である「古道のメンテ形態」を選ばれたのだ。
開発の京浜急行」がどこまで意図したのかはわからないが、実際「恋雨」のヒロインが紙飛行機を飛ばしたと言われる階段を下ると、うまい具合に北倉氏のおっしゃる「公園の中の緑道そして舗装道路の端の歩道」を辿って、能見台緑地(=六国峠ハイキングコース)まで達することができる。細かいことを気にしなければ、浦賀道歩きのこの区間に関しては、無理に住宅地に入って行かずとも、そんなメンテ形態ルートを辿っても良いかもしれない。
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(地理院地図を加工)

だがこのときのなめこさんは、「古道について」記事、上でも引用した北倉庄一氏の文章に感銘を受けさんざん啖呵を切ったにも関わらず、メンテ形態ルートは取らず、闇雲に能見台の住宅地の中を突き進んだ。(はい?)
いやまだそのときは、北倉氏の文章をちゃんと噛み締めていなかったのだ。テキストをよく読んでいないと言って良い。(はぃ〜?)

その後の私は、どういうわけかこの公園内のルートを一度も辿ったことがなかった。この2年後に、大岡川流域の東側分水界である久良岐尾根の探索として、ほぼ同じ様な経路を逆方向に辿ったことがある(記事にしたらリンクします)にも関わらず、そのときはまたコース選択のコンセプトが異なるので、古道のメンテ形態をたどる義理もなく(はい?)、そのときもスルーしてしまう。
先人の貴重なテキストを元にしているとはいえ、閲覧者の皆さんに勧めておいてそれはまずい。なので完璧主義者のなめこさん(はい?)は後日、これを書いているごく最近にそのメンテ形態ルートにもチャレンジしてみたので、そちらはおまけとして別記事としておこう。(またおまけかよ!)

ということで、この日のなめこさんは先述の通り、失われた古道を求めて能見台1丁目〜2丁目の住宅地の中をうにうに進むことになったが、実はその青ラインで引いた本来の古道ルートは、ある素材を利用しそれなりの作業を施せば、かなり精密に追い込むことができるのである。
横浜市三千分一地形図である。市内の大部分の領域の、昭和初期(1928〜1953)と昭和30年代(1954〜1965)のなんと1/3000という精細な地図が閲覧できるのである。それぞれ造成前の年代であれば、うまく現代の地図と重ね合わることができれば(これが結構面倒なのだが)、原地形、そして古道のかつてのルートをほぼ正確に把握することが可能である。上の地図については「今昔マップ等を元にして」と書いたが、実際にはこの三千分一地形図も参考にしている。

ところが、ところがなのである。(なんだ?なんだ?)
現時点(2019.9時点)で、このページはほぼ使用できない。一応横浜市の言い訳を引用しておくと、
※平成31年4月1日のホームページリニューアルにより、高精度の詳細ページが閲覧出来ない状態です。(令和元年5月17日現在)
 現在高精度の詳細ページの復旧を目指しております。復旧まで暫定版を公開いたしますのでご了承ください。
出た、ホームページリニューアル。人の税金で贅沢こいている行政が無駄且つ無意味なサイトリニューアルを繰り返し、さんざん人のリンクをぶった切るような悪行を働いておきながら、この有様である。
誰も食した者がいないといわれる「なんとか弁」だの(は?)、どこのすだれ野郎に忖度したのか急にIIRを誘致すると言い出したのと同様、このインチキ政令市の斯様な改元を挟んだ不祥事(笑)は十分に糾弾されるべきことである。ついでに、市内の地下鉄建設をすべて凍結させておきながら、お隣の市に地下鉄を延伸させることだけに血道を上げていることも取り上げておこう。(地図の恨み、八つ当たり炸裂中www)
おかげで、この先のルート、地形については、この三千分一地形図に基づいて詳細に検証するつもりでいたが、手間が省けた 大変残念ながら断念する。(いやだからおかげで手間が省けたんだろw)

そんなわけで、この日付に辿った青ラインのコースは、おおよそのところで古道のルートということになるが、地形の高低差が改変されている以上、旧古道のラインをXY平面上に投影したルートを歩むことに意味は無いかもしれないし、このブログではあまり人様のお宅を不必要に晒すのは避けようという方向にあるので、以後例によって、その詳細なルートの画像は最小限に留めるということをお断りしておく。

まずは、「恋雨」ヒロインが紙飛行機をぶんぶん飛ばしたという(ぶんぶん?)階段を下ろう。
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下る方向右側に見えるグリーンのフェンスが神奈川県立氷取沢高校のグラウンド。一応ご説明しておくと、この階段から先はしばらく能見台1丁目だが、氷取沢高校の敷地の部分はカクっと氷取沢町(ひとりざわちょう)である(カクっと?)。それと、前回の記事から気になっている方もいらっしゃるかもしれないが、グラウンド向こうの高台上のこの逆円錐系の建造物は、
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横浜市水道局能見台高区配水槽である。この日はそちらには向かわなかったが、2018.12.2の画像があるので載せておく。
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配水槽付近の標高はだいたい 105mくらい。カタストロフィ付近がおおよそ70mであるから、あちらは実際かなりの高所である。

階段は右にカーブし、氷取沢高校のグラウンドの前に出る。
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この日は意識していなかったので、てっぺんがフェンスのポールと重なってしまっているが、遠景で右半分に見えている山が円海山である。

グラウンド沿いの歩道を南(左)へ進む。
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真っすぐ行けば、自然に能見台北公園の入口に出るのだが、
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高校から離れて一つ先の角を、ラインに従って無理矢理右折する。
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ここで唐突だが、かの礼儀正しい岩船地蔵さんについての追加情報を記しておこう。「磯子の史話」という、磯子区制五〇周年記念事業委員会による本である。長くなるので古道(浦賀道)に直接関係ある部分だけ引用しておく。(674〜675ページ)
19 千花の岩船地蔵
郷戸坂を上りつめると、郷戸団地のはずれから右にはいり、次第に高台の尾根道となります。右側は雑木の山、左は西富岡団地を下に見下ろします。ほどなく、富岡の家々の上に海が見えて来ます。この道にはいって一二〇m余り、見晴らしのよい所に石地蔵があります。
(略(お地蔵様そのものに関することは略。ごめんなさい)
ここから一〇〇m先に、枯れかけた一本杉があります。もとはこの杉の下に地蔵がありましたが、土地のつごうで今の所に移りました。一本杉の時代、ここに岩船茶屋がありました。(略)
この金沢道の人通りは、鎌倉時代はかなりあったでしょう。室町時代になって次第にさびれていきました。江戸時代になって、金沢や鎌倉への観光でにぎわったようです。とくに幕末期は、海防のために急に武士たちの往来が多くなりました。横須賀に製鉄所(造船所)ができて、通勤の人々が通るようになりました。明治になると、かなり多くの人通りがあったようです。
この見晴らしの良い道の沿線は字千花といって、中里の地内です。左は富岡の団地、右は山の斜面から下は氷取沢です。その間に上中里の土地が追分茶屋(引用者注:岩船茶屋のこと?)の近くまではいりこんでいます。
杉田9丁目のアクセス路と交差したあたり、あるいはその前のから離れる辺りからの坂を郷戸坂といい、区境付近の住宅地郷戸団地というらしい。
千花(せんか)というかわいらしい字名の由来は現在のところ不明。岩船地蔵から100mの「枯れかけた一本杉」というのもわからないが、もしかしたら本当に枯れてしまったのか、あるいは断崖カタストロフィに飲み込まれてしまったのかもしれない。だとすれば、例の紙飛行機階段か、その先の住宅地の辺りであろうか。

ここでは、今昔マップを使用させていただこう。(字ちっちゃ。ご覧になる方はクリック拡大してくださいね)
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実際、現在の岩船地蔵から100mほどのところは、等高線から見て、ちょうど坂を上りついたところである。そして、地形的なピークはそこからさらに100mほど先の、切り通しが描かれている付近であっただろう。
それが氷取沢高校南東側のちょうど(引用文の)上の画像の辺りである。(第1のピーク
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(地理院地図を加工)

2つ先を左折、能見台北公園の西側を南に進む。
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すぐに右折し公園から離れ、階段を上り、緑道のような道を西へ進む。
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旧地名では、この東西の緑道付近を境に、古道日下村金沢村境界であったものが、ここからは六浦荘村にまるごと入る。これらの地名は字名(さらに旧の村名)で言えばそれぞれ氷取沢富岡釜利谷であり、現在の地名で言えば氷取沢町富岡西能見台と言えないこともない。だがそれぞれの境界は、造成とそれに伴う区画整理で全く違ったものになっている(Mapion)。前記事のおまけで言及した京急の開発プロジェクト「釜利谷地区開発計画」の釜利谷は、元々の地名から言えば厳密にはここからということになる。

緑道を抜けて南へ。
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(地理院地図を加工)

この辺は上り坂だが、古道は左画像の辺りから長い切り通し、右画像よりは少し手前ぐらいが地形的なピークであったらしい。(第2のピーク
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再び緑道を抜け、古道の切り通しは右画像の少し先で終了する。
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この辺は、両側から富岡川大岡川流域の谷筋が迫るちょっとした鞍部になっていたようである。そしてここから先、やや急な上り坂になる。

古道は上り坂が続き、この辺りからまたやや長い切り通しである。だが先は集合住宅の敷地なので、左へ進む。
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交差点向こう側にけいきゅうストアがある。ちょっと休憩、おなかがすいたのでお食事っ♡!
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美味しかったので、載せておこう。(大食いだなっ)
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ストアの裏手は海も見えて、なかなか眺望が良い。
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(地理院地図を加工)

親子丼セットを食べてすっかりぽっこりおなかになったなめこさんは、先程の集合住宅の上側の続きに向い、さらに坂を上る。
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古道ルートストアからだいぶ西に寄っているので、上記左画像信号の一つ先の角を右折方向に進んだが、メンテ古道を極めたい者は、そのまま信号を真っすぐ進めば能見堂緑地入口に出られる。

右側は能見台野地久保公園、この辺りも古道は切り通し上り坂である。
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野地久保という凹な地名はどの辺りを指しているのか、この公園のロケーションではよくわからない。こちらの地図(PDF)(2022.3リンク貼替)によれば、先程の鞍部西側の谷頭付近、現在の能見台グラウンド周辺を野地久保(のじくぼ)といったらしい。 少し離れているが、小字名でこの辺りもその領域であったのかもしれない。

坂を上りついたら、浦賀道は左(東)へ大きくカーブする。だいたいこの辺。
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かつては右方向(西方向)にも古道が分岐していて、まっすぐ行って山を下れば氷取沢の谷、さらには円海山武相国境道に通じ、途中で尾根沿いに左(南)へそれれば、現在の金沢動物園付近を通り、やはり武相国境道に合流する。どちらの道もかなりの区間が山道として現存する。
後者の道は先程からの大岡川右岸分水界久良岐尾根)に沿っていて(ここから先、大岡川に相対する流域は富岡川から、平潟湾に注ぐ宮川に替わる)、また同時に朝比奈峠が開かれる以前からの鎌倉古道であったようだ。

浦賀道を歩む我々は、古道のルート通り左へ進む。
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因みにこの辺りが、岩船地蔵から数えて、古道第3のピークとなる。

現在の標高は90m台、やはりがよく見える。
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まもなく右側に能見堂緑地の入口がある。
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偶然か、開発元の計算済みか、古道のルートもだいたいこの辺りで、向かって左斜め方向に侵入していた。
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(地理院地図を加工)
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(地理院地図を加工)