環状4号線かつ県道23号原宿六ツ浦線京急ガード。
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これで京急本線とクロスするのは、ここここここに続いて4度目である。付け加えると、この時点で既に高架上では分岐している京急逗子線ともここでクロスしている。分岐後の逗子線とはあとでもう一度だけクロスする。

ガードをくぐったすぐ後、古道環状4号から左へ分岐する(左画像左の道)。
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元々は現在の六浦交差点辺りからスムーズにカーブして道がつながっていたとうだが、京急の敷設によって今のように変化したのであろう。

古道はまもなく環状4号に再び合流する。
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なめこさん御用達のスシロー前(1回行っただけだろ)に出る。
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(地理院地図を加工)

先に進む前に環状4号を少し戻ってみよう。
戻って左側(環状4号北側)に六浦山上行寺〈日蓮宗〉(横浜金沢観光協会)がある。
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上行寺という名前そのものはある筋では有名だが(どの筋だよ?)、まずはお寺の境内を回ってみよう。
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ここも日蓮さんにオルグされたクチのようだ。(だからオルグゆーな。クチゆーな)
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本堂の左の方に廻ると、一段上にいくつかのやぐらが見える。こちらから裏の高台に上れそうである。
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上行寺にゃん。さすがはお寺のにゃんである。(何がだよ?)
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石塔群が並んだ平場。そこからの眺め。
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舗装された坂道がさらに上に伸びている。上ってみよう。
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あれ?山道がつづいているぞ。
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右方向の眺め。八景の駅が見える。
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アーケプラスチダ共(植物です)がいなければ、もっと眺めがよいはずだが、、、

左方向は下に環状4号沿いのお寺、右方向は八景の駅に接した谷、つまりここは明白な尾根であり、この道は明快な尾根道である。
このときはまだよくわかっていなかったのだが、この尾根前記事八景尾根と名付けた、泥牛庵から金龍禅院九覧亭へ伸びる尾根である。
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(地理院地図を加工)

ここの尾根道方向とは逆(尾根の上り方向)にたどっていくと、権現山お伊勢山などのその筋では有名な山に行くことができる。(だからどの筋だよっ!?)
金沢八景駅の西側に公園の建設が行われているが(2019.9の時点で未完成)、あれができると、この先の権現山お伊勢山にはお気軽に来れるようになるのかもしれない。

尾根道をずっとたどっていきたいところだが、今日のテーマは尾根探索ではないのでここはぐっとこらえて、この舗装された坂を下に下りる。翌週あらためて来ました

坂の左側(お寺とは反対側)に階段がある。上ってみよう。
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がある。 だがこれがなんだかわからない。
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お隣の、というか一段下の高台に鳥居が見える。
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さらに舗装された坂を下る。
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だいたい下りきったところに、この階段がある。
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ある筋(だからどの筋だ?あ?)には知られた、上行寺東遺跡(ただしレプリカ)へのアクセス階段である。

はあはあ言って階段を上る。足腰が強くないと、この遺跡(ただしレプリカ)を見るのは難しい。
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お城にエレベータをつけるだけでキーキーヒステリーを起こすニワカ城マニアが湧いてきたり、それを面白くもないギャグにして全世界に恥ずかしい非人権ぶりを発信する自称立法府の長を容認してしまうような国民性である。この種のアクセスの面倒な史跡を直接観るためには、普段からできるだけ足腰の健康はキープしておくようにしなければならない。さもないと名所巡りどころか、日常生活においてうっかり車を運転しただけでも、頭の悪いヒステリーがうじゃうじゃうじゃうじゃわいてきて、あなたを勝手に老害認定し、場合によっては煽り攻撃を受けることになる。

上って右側に、先程のここより一段上の祠から見えた鳥居、そしてミニ神社である。
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いや、神社はこっちだな。
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先程の同様、こちらについても詳細不明。金沢区については横浜市の他の区よりもとくに歴史的史料は充実している傾向があるようなので、きちんと調べれば何かわかることなのかもしれない。

そしてその左側のこれ。
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上行寺東遺跡横浜金沢観光協会)である。
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奥にやぐらがある。
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通路部分が狭くて全体が撮れない。こんなときはパノラマですよ!奥さん!(誰が奥さんだ)
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後でわかった少し真面目なお話をしよう。(はい?)
この上行寺東遺跡とはもともと、上行寺の境内が入り込んでいる谷の東側、京急線路までの間の山(字名は引越)に、大量のやぐらと建物群、石塔類の跡、そしてこれはまた大量の人骨が発見されたものである。以前は京急の車窓からその崖面に複数のやぐらが観察できていたそうだ。現在は山に集合住宅が建てられそのやぐらも消滅しているが、その建設前(1984年)の発掘調査でその全容が判明したのである。
一説では、この遺跡は律宗の僧、忍性が住したという浄願寺の跡ともいわれる。その浄願寺、あっち(どっち?)にはそういう説明書きが無かったので今わかったのだが、例の龍華寺記事)の前身であり、もともとこちらの六浦にあった浄願寺が焼失し、龍華寺として金沢町屋(現在の地名ではどちらかと言えば洲崎)に移転したという。

上行寺東遺跡=浄願寺跡説は、こちらのPDFに詳しくその歴史的重要性とともに記されている。
その真偽はともかくも、奥の本物のやぐら、そして左側のGRCで型どられたやぐらと建物跡はレプリカとはいえ、合わせて小規模なものではあるが、それだけでも十分な迫力である。それらが山全体に存在したのである。

なぜ保存しない?

上記史跡調査以降、それらを保存しようとする側と、行政(=横浜市。開発側と言って良い)といろいろおどろおどろしい確執があったようで、その経緯が詳細に書かれた保存運動のパンフレットも存在するが、オンライン上ではこちらのPDFでその経緯を簡単に知ることができる。
また以下のブログ記事には、保存運動の総括的なことと、保存運動パンフレットに掲載されたという浄願寺、律宗、忍性の関係について詳しく書かれている。
議会を含めた横浜市もクソだが、上のブログを書かれた先生のTweetによれば文化庁にも超絶的なクソがいたらしいが、現在アカウントが凍結されているほどのクソであるらしく誰のことであるかはわからない。こいつのことらしいですね(笑)。別アカウントで復活しているみたいです

結果、遺跡は3つのやぐらを残してすべて破壊され、それとあとはGRCのレプリカだけ残されることになった。
ほんのわずかの本物とレプリカを残しただけで「それで良しチャンチャン」と見る向きもあるようだが、もしこれが丸々残されていたら例の某所の世界遺産問題(鎌倉だろw)も別の流れになっていたかもしれない、と思うと残念な気がする。
それと、遺跡破壊後に建設された集合住宅の住人の方々には(直接の関係者以外は)何の罪も無いことを承知の上で申し上げるが、ご自分の住居が200にのぼる人骨が出土した当時の墓地の上に建てられていることについて、もしそれをご存知であればいったいどんなお思いでいらっしゃるであろうか。少なくとも私ならばまったく気にしない(え?)、変な霊感に鋭い人が知らないで住んでいたとしたら、かなりヤバいと思うぞ。(変な霊感がある人は最初から気づいて住まないんじゃね?w)

そんなことはつゆ知らない現地のなめこさんは、「だいたい見たからいいや」と言って先程の急階段を下り、なめこさん御用達のスシロー(だから一回行っただけだろうがっ!)前に戻る。
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なめこさんの稚拙な文章を補うため、上行寺周辺の地図を貼っておこう。
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(地理院地図を加工)
あ。スシロー描くの忘れた↑。(上行寺関係ないだろ!)

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(地理院地図を加工)